通常、住宅というのは、竣工した建物そのものや、図面、あるいはイメージといったフィジカルな計画そのものが一つの到達点として扱われ、紹介されたり批評される対象になる。しかし、このプロジェクトは、そのような、時間軸上の物理的到達点そのものというよりも、住まいがつくられる時間の使い方や、そこで覚醒されるライフスタイルや感受性に焦点をあてながら、豊かさの本質を考える行為そのものをプロジェクトの主題に据えたいと考えた。これが、「トクラボ日誌」というプロジェクト名の由来である。
現代の住まいの豊かさは、金融資本主義社会の勝組にしか得られないのだろうか。これは、建築の設計の仕事をしていて常に自問自答してきたことのひとつである。富裕層のマネーに集ってるだけの設計者や施工者が、一流とされる傾向がこの業界には常にあるが、そこにはいつもモヤモヤ感があった。
だからといって、薄利多売や安かろう悪かろうの貧困ビジネスが良いとは全く思わない。なぜなら、これらこそが、豊さはマネーゲームの勝組にしか得られないことを立証しているようなものだからである。しかし、その一方、今すぐ我々の日常を支配する貨幣経済との関係を一切断って、お金とは無縁の住まいのあり方を実践しようとか、そういった極端な大ぶろしきをここで広げるつもりもない。原理的な話は、それ自体は面白いと思うが、流されることなく流されて生きる中でのバランスを探る以上のことは、当面の、既存社会の内側からの実践課題としては現実性を伴うものではない。
ところで、住まいについて、お金がないからとか、時間がないからとか、そういう諦める言い訳を探してばかりいると、そもそも、自分にとっての豊さとはなんなのかということを、真剣に問うことから逃げている自分に気づくことがある。もっとも、住まいの豊かさを放棄するという生き方も一つの道だ。誰しも、日々の暮らしの中で問うことを放棄すれば、いとも容易くそのような境地に陥ることは可能である。私自身、仕事がら、人の住まいの豊かさ真剣に向き合うが、自分のことについては、正直、どうでも良いと長らく考えようとしてきたところもある。しかし、結局、それには無理があった。考えてみれば、自らの住まいの豊かさに向き合えない人間が、人の住まいの豊かさに真剣に向き合えるはずがない。私の中にあり続けているモヤモヤ感は、きっと、住宅設計への情熱がいまだあり続けるからだろう。
そこで、独立して10年をひとくぎりとして、マネーゲームの勝組でなくとも、住まいの豊かさは得られる、そうでなければならないという命題のもと、価値の尺度をテーマにいくつかのプロジェクトをライフワークとして進めたいと考えた。その一つがこのトクラボ日誌である。
なお、ここで誤解してほしくないのは、私は、良識あるお金持ちが、自分たちの豊かさを実現するために、「人」にきちんとした対価を支払い、富の循環によって建てられる家を否定しているのではない。むしろ、それは肯定しているし、設計者としては、これまでもこれからもそのようなプロジェクトに携わっていくこと自体に微塵のためらいもない。
むしろ、お金がない人が、お金持ちと同じ価値尺度でしか自らの豊かさについて考えようとしない状況、その結果、予算がないことで自暴自棄になったり、薄利多売の貧困ビジネスに引っかかってしまったり、あるいは、とにかく安ければ良い、幾らでここまでできたというような、本当に必要かの十分な吟味なしに、叩き売りのバナナをあるだけ搔き集めるような行為自体が目的化し、そもそも、自分たちの豊かさとはなにかという問いから遠くかけ離れた状況に無意識のうちに陥る現代社会の病理について、このプロジェクトを通じて考えることが出来たらと思っている。
トクラボ日誌は、ごく普通の小さな古家を舞台に繰り広げられる。扱う内容は多岐にわたる。不動産探しから改修の記録といった、所謂、建物の話だけでなく、小さな庭にある植生、暮らしの細部、そして、そこで起きる様々なドラマや葛藤など、少々、馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれない内容も含めて、住まいの豊かさを様々な角度から記述していきたいと思っている。それゆえに、興味のない人は読まない方が良いと思うが、極めて個人的とも思われる内容を検証する中で、今後の住まいを考える共通地下道の様なものが浮かび上がれば幸運である。
→ トクラボ日誌 #2へ続く