効率の追求の果てに証明されたのは、真に効率的なものなどどこにもないということだ。
表層の効率は、そのしわ寄せを受ける、マイノリティや弱者の犠牲の上に成り立っているに過ぎない。
あらゆる人は、加害者でもあり、被害者でもある。
これはなにも、エネルギーの話のことを暗に語っているわけではない。
この構造は、僕たちの生活のあらゆる次元に浸透していることである。
意識的になり、罪の意識を感じることだけが唯一の未来の変化につながる可能性としか言えないほどに。
たとえば、日本はモノづくりの国などという人々がいるが、
いまだかつて、この国でモノをつくっている当事者たちが大切にされた時代があっただろうか。
モノづくりは単に利用されてきただけの話だ。
そして、効率の追求の果てにこの国のモノづくりたちは絶滅に瀕している。
建築もしかりだ。
安ければそれでよいといううちはまだいい。
人を酷使することによって自らの利益を得ようとする精神が宿らぬうちは。
なぜならば、そのしわ寄せは実際に手を動かし、つくる者が常に被ることになる。
人に報酬を払わない国では、自らの報酬を隠すことのできる者だけが、
まともな利益が得られるからである。
リスクを負わなければ、身の回りにある一つ一つのモノのの本当の単価を知ることができない。
リスクを負えばよいだけの話だが、多くの人はそれをしない。
けれども、そんな、現状の不透明性を批判する前に、なぜそれが不透明になってしまったのかを考える必要がある。
モノよりも人に価値を置く社会であれば、不透明性はここまで進行しなかったかもしれない。
そこそこ安い材料や必要最低限の設備でも、
そこに設計者の知恵と、職人の腕がかけ合わされば、それなりのものはできるだろう。
しかし、どんなに高価な材料や設備を用いても、
そこに、人が関わることの価値を見出さず、
適正な報酬(あえてお金とは書かない)も認められなければ、ロクなものはできないだろう。
たとえ人の足元を見ることに成功したとしても、人の心までは操れない。
誰の助言すら受けないセルフビルドを除けば、材料費だけで質を得ることはできない。
モノよりも人を大切にする倫理観を持つ人だけが、最後には豊かな質を得ることができる。
そういう社会でなければ浮かばれない。
そして、それは、表層的な効率や、速さの追求とは違うベクトルの先にきっとある。
良い仲間たちと、良いモノを、良い人の為に作ることに貢献する比重を高めていきたい。
「良い」という尺度は単純軸では図ることのできない相対的なバランスの中から判断されるものだが、
価値や豊かさを奪い合うのではなく、交換・共有し合える中にしか、その軸は見出せないということだけは言える。